39歳で初めて就職してみて5年経った話し⑥
今日は病気についてなので、真剣です!!
※ゲーム中の広告で、もう見飽きたわ〜と思っていたところ、登場人物が突然全員黙った時、人は思わずスクショを撮ります
本日は、このくらい静まり返る内容かもしれません!!(なんてな)
潰瘍性大腸炎の当時(35年程前)の内科治療は、
サラゾピリンという「え、これ喉通ります?」みたいな大きい錠剤と、ベニロンという点滴薬が主流でした。
あとは、ひたすら絶食。
食の細い女児でも、さすがに辛かった。
点滴からのブドウ糖と食堂にある唯一口に入れられるヤカンの麦茶が口の中で甘く、塩味が欲しくて仕方なく。。。
皆んなの食事時にポツーンとひとり。
当時はベッドにテレビもありませんでしたし、
病棟から見える海を眺め、折り紙で鶴を折り、その鶴をだんだん小さくして行くことにチャレンジし、お腹が痛むのでうずくまる。
ただそれだけ。
何となく同じように入院している子供達の退院の様子を毎日見ていると、自分もそのうち帰れて元の生活に戻れると、思っていたんでしょうね。
しかし、カンファレンス室で病気の説明があった内容としては、
・1万人に1人の難病であること
・子供での発症はほぼ報告がなく日本でも6000人いるかな、くらいとのこと
・新しい病気でほぼ何も分かっておらず、医学書も1冊しかないとのこと
・完治は見込めないということ
・特定疾患に指定されていること(当時は日本が裕福でしたので、全額免除でした。ただただ皆様に感謝です。)
私の当時の病状としては
・大腸の全部位に潰瘍が広がっており、横行結腸から下が特に酷く
・S状結腸については5ミリ程の紐のようになって、やっと繋がっている状態
原因はほとんど分かっていませんが、ストレスと言われている。
ここで幼児なりの「???」
毎日ご飯が出てきて、遊んで寝ての6歳児の生活にストレスって、え?😀
ますますよく分からないわけです。
父はThe九州男児で、母に靴下を履かせる始末でしたが、母も別に嫌そうじゃなかったし、
姉は5つ上でかなり乱暴でしたが、私はそんなに不幸ではありませんでした。
上の家族情報だけでは内容が薄いかもしれませんが、
痩せていたので頭が重かったのか、よく階段から転げ落ちておりましたが、「また落ちたわぁ」と、ゲラゲラ笑うくらい陽気でした。
数年、死にかけるまで放置された上に訳の分からんことばかり言われ、
誰かの血液を少しづつ輸血して貰っている時、激痛を感じながら(当時は静脈からしてましたが、今でもそうなのかな)、
”この世で誰も分からない事態に陥っている”ということを日々分かっていく不安。
ただただ、両親の涙が何より痛かった。
本日はこれまで。
こんな話ししといて何なんですが、
皆さま、本日良い夢を*°