ミドレンジャー999 人生中くらいが希望なブログ

39歳になって初めて就職して5年経った話しを綴ります🙂

39歳で初めて就職してみて5年経った話し⑨

福岡でも明日から飲食店への時短要請となりました。自粛と繁忙、たまらんですね。

 

朝から雨。こんな時は昼から家鍋です。

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※福岡の出汁メーカー“久原本家“の柚子塩鍋

福岡の隠れた名産“鯛“がメインでした*°

1人前づつ作れるようになっていますし、同シリーズ色々な種類があって、その中でも白濁した博多水炊きは特にオススメです。

 

1番簡単なストレス解消『食う』を行うと、太った自分の姿に後にストレス倍増。

人間っていいな。トホホ。

 

さてさて。

前回までは、潰瘍性大腸炎という病気や、入院して退院に至るまでの治療などをお伝えしましたが、

 

6歳から11歳までの間、そのような入退院を繰り返しました。

 

退院中も下記のような食事制限がありました。

油もの、ナマ物、乳製品、強繊維

何を食べろと…😭

 

逆に食べれるものでは

白身の魚、豆腐、ささみ、エビ、イカ、貝

タンパク質の選択肢はこんな物で、油が使えないので茹でるか蒸すしか方法もなく🥲母大変

 

当時はインターネットもなく、食材自体も食事制限をサポートする商品も、今ほど豊富ではありませんでした。

 

24時間働けますか🎶

などのCMソングが流れており、

どちらかと言えば、ドーピングしてでも不健康に走るような時代でしたから。

 

そんなギラギラな時代背景に、修行僧のような生活の女児。本当はギトギトのポテチやチョコレートを食べたいわけです。

 

もちろん給食は食べられないので、マミーの苦肉のお弁当持参。

「お弁当ずるい、いいなぁ」なんて言う同級生が、ほんとに頭悪そうに見えていました。

 

このような歪んだ自分の思考には、病気の二次災害のように苦しみました。

 

入院中、同じ部屋の子供の付き添いのお母さん達との会話がメインです。

日常会話とて、おばちゃんの話には必ずオチがある。

必ず笑いに繋げる、強い意志がある!

おばちゃんサイコー!!

 

入院中の唯一のオアシス。。。

 

これを多感な小学生女子の同級生相手に置き換えた場合、自分が友達との会話を楽しむことは到底無理でした。

 

退院→自宅療養→通学→下血→入院→

 

これのループです。

この辺りではもう勉強の遅れを回収できず、

心だけではなく体力自体も情緒乱れ放題です。

 

治療では内服と点滴にてステロイドを使用するようになり、ムーンフェイス(顔だけが浮腫み🌝手足は細い副作用の総称)で顔はパンパン。

 

そんな顔を従えての退院明けの周囲の視線。

もう乙女心なんてどこに置いておきようもありません。

 

モルモットのような生活。

なぜ、うずくまるほどの痛みを感じながら、生かされているのか。

 

大人が悲しむから「死にたい」は言えない。

 

“大器晩成“

大人たちはこのおまじないを繰り返し、私に唱えてくれていました。

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※整理してたら靴箱の奥から出てきました。

インベーダーモデルのVANSスリッポン😊購入した気分。ラッキー。

 

ここまでは、闘病日記のようなものでした。

 

次回からは家族の様子がおかしくなってきます。トホホ。

 

そうですね。私の人生は“トホホ“がキーワードかもしれません🙂

 

でも、言わないだけで、ホントはみんなそうなんだよね。今なら分かる。

 

では、本日はここまで。

お付き合いいただいた方々、本日、良い夢を*°

 

 

39歳で初めて就職してみて5年経った話し⑧

 

年度末、毎日は無理かもしれん…

しかし、物語りは続いております!!

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山口県へ旅行へ行った時にタイミング良く見れたSL

 

ちなみに先日、通院のためにカーシェアリングで借りた車のシフトレバーが、スケバン刑事のヨーヨーみたいでした☺️

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※これが好みかと言われると、むー🙄💦

パカっと取れて、ヨーヨーになるくらい遊び心が出た頃にやっと考えることとします

 

さて、前回は、最初の入院は半年ほどだったとお伝えしましたが、それだけ食べずにお腹を休めると千切れかけた大腸もつながるものなのですね。お薬の力もありましょうが。

 

4、5ヶ月し、下血量が落ちついて来た頃、生まれて初めての重湯を食べました。

 

忘れられないキョーレツな思い出です。

 

もうこの頃には食べ物への異常な執着が心を支配しています。かといって、ハングリー精神のようなギラギラもありません。

 

どっちでも、なんでも、どうでもいい。

おなかすいた。

 

それだけです。

 

元々陽気なのでニコニコはしていました。

ちびまる子ちゃんの小さな頃の描写に良く似た、ニコニコとヘラヘラとした子供でした。

 

それでもどこか、心にシミのようなものがポタリと落ちたような日々でした。

 

お母さんが私よりワクワクした様子で、介助師のおばちゃんから数ヶ月ぶりに我が子の食事を受け取っていたのを時々今でも思い出します。

 

重湯の隣には残渣の一切ない“おすまし“が付いていました。

 

重湯は、それはそれは強いお米の香りがして、涙がやっと1つ出たました。

 

「美味しい?」と、聞かれるのは久しぶり。

「お米の匂いがする」と、答えたのは初めて。

 

周りの大人たちの顔も良く覚えています。

 

今になったら、分かりますね 。

 

バブル真っ只中の日本で、子供がお米の香りで涙を1粒だけ流すなんて、なんとも言えない気持ちにさせられたんだと思います。

 

口から食べて、キレイに出す。

 

とてもとても大切なこと。

私は小さな小さな頃に学びました🙂

 

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※先日、飲み会の帰りに1人でもう一杯寄ったところでこれが出てきた。やりおる。

 

今日はここまで。

皆さま、本日良い夢を*°

 

39歳で初めて就職してみて5年経った話し⑦

早速1日空けてしまいました。

 

私いま人間って感じがしてます。

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※母ちゃんの代わりに反省中

 

ちなみに猫が居ると、少しづつ隙間を空けていないと「開けてー😺」がうるさいので、熱効率が悪いです。今日は寒いので特にです。

 

余談でした。

 

前回はやっと入院できたところまでお話ししました。

 

輸血を数回行ったものの、下血で出て行く血の量はさほど減らず、

 

固形物を口にできないまま、1ヶ月が過ぎ、2ヶ月が過ぎ、結局この入院は半年ほど続くこととなりました。

 

栄養失調もあったのでしょうか。

血管も細くてもろく、当時の点滴針も今のように良くできたものではなく、なかなか挿しっぱなしともいかず🥲

 

しかしながら、唐突ですが、

やはり幼少期から中年まで病院に通うと、医療や器具の進化にはかなり感動します!!

 

採血とかはもう本当、なんですかあれは!

 

“血を取る目的され果たせばいい“みたいなぶっとい針から、痛みは少なく、看護師の安全までも守るように、抜去後に針がシャキーンと収まる、みたいな!

 

最近では看護師さんの方がお若いので、「えー、しーらーなぁい♥」と、言われます、笑

 

あ、また脱線しました。

 

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※母ちゃんへの諦めが早い猫

 

さてさて

 

食べれられないので、栄養補助のためクリニミールと言う、見た目牛乳のような経口栄養剤を摂取していたのですが、どうしても匂いが受け付けられず、

 

匂いで吐き気をもようし、頑張って鼻詰まんで飲みきっても、結局、ま〜(º﹃º )**(追悼:志村けんさん)してまう非情な毎日でした。

 

あとは、トイレのたび、看護師さんを呼んで〇ン〇を見てもらう屈辱!!!

 

最近、マツコ・デラックスさんの特番で、腸内環境を研究されてる元サッカー選手の方が出演されていたのですが、ついに〇ン〇の話がこんな時間に堂々と!!

 

〇ン〇ミュージアムたるものも好評のようで、

やっと時代がついて来たなぁと感じます😃笑

 

病気はその性質だけでなく、周囲の環境や時代によっても、人をどうにでも揺さぶるものです。

 

さて、おネムになって参りました。

そんな私を横目に、猫爆睡です。

 

本日はここまで。

明日は寒いみたい。

よく寝ましょう。

 

皆さま、本日良い夢を*°

 

39歳で初めて就職してみて5年経った話し⑥

今日は病気についてなので、真剣です!!

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※ゲーム中の広告で、もう見飽きたわ〜と思っていたところ、登場人物が突然全員黙った時、人は思わずスクショを撮ります

 

本日は、このくらい静まり返る内容かもしれません!!(なんてな)

 

 

潰瘍性大腸炎の当時(35年程前)の内科治療は、

 

サラゾピリンという「え、これ喉通ります?」みたいな大きい錠剤と、ベニロンという点滴薬が主流でした。

 

あとは、ひたすら絶食。

 

食の細い女児でも、さすがに辛かった。

 

点滴からのブドウ糖と食堂にある唯一口に入れられるヤカンの麦茶が口の中で甘く、塩味が欲しくて仕方なく。。。

 

皆んなの食事時にポツーンとひとり。

 

当時はベッドにテレビもありませんでしたし、

病棟から見える海を眺め、折り紙で鶴を折り、その鶴をだんだん小さくして行くことにチャレンジし、お腹が痛むのでうずくまる。

 

ただそれだけ。

 

何となく同じように入院している子供達の退院の様子を毎日見ていると、自分もそのうち帰れて元の生活に戻れると、思っていたんでしょうね。

 

しかし、カンファレンス室で病気の説明があった内容としては、

・1万人に1人の難病であること

・子供での発症はほぼ報告がなく日本でも6000人いるかな、くらいとのこと

・新しい病気でほぼ何も分かっておらず、医学書も1冊しかないとのこと

・完治は見込めないということ

特定疾患に指定されていること(当時は日本が裕福でしたので、全額免除でした。ただただ皆様に感謝です。)

 

私の当時の病状としては

・大腸の全部位に潰瘍が広がっており、横行結腸から下が特に酷く

・S状結腸については5ミリ程の紐のようになって、やっと繋がっている状態

 

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原因はほとんど分かっていませんが、ストレスと言われている。

 

ここで幼児なりの「???」

 

毎日ご飯が出てきて、遊んで寝ての6歳児の生活にストレスって、え?😀

 

ますますよく分からないわけです。

 

父はThe九州男児で、母に靴下を履かせる始末でしたが、母も別に嫌そうじゃなかったし、

姉は5つ上でかなり乱暴でしたが、私はそんなに不幸ではありませんでした。

 

上の家族情報だけでは内容が薄いかもしれませんが、

 

痩せていたので頭が重かったのか、よく階段から転げ落ちておりましたが、「また落ちたわぁ」と、ゲラゲラ笑うくらい陽気でした。

 

数年、死にかけるまで放置された上に訳の分からんことばかり言われ、

 

誰かの血液を少しづつ輸血して貰っている時、激痛を感じながら(当時は静脈からしてましたが、今でもそうなのかな)、

 

”この世で誰も分からない事態に陥っている”ということを日々分かっていく不安。

 

ただただ、両親の涙が何より痛かった。

 

本日はこれまで。

こんな話ししといて何なんですが、

皆さま、本日良い夢を*°

 

 

39歳で初めて就職してみて5年経った話し⑤

⑤日目です。

あと38年分、、、何回連載して終わるつもりなんでしょう😭ブログ向きではないかも、、、笑

 

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とりま昨日、友人が豚足入りの沖縄風おでんを分けてくれましたので貼っておきます🤤

 

昨日、6歳の時に声が出なくなったところまでお話しました。

 

当時、福岡市に”こども病院”というものもありましたが、紹介状がなくては行けないシステムでした。

 

やせ細り、声も出なくなった娘を認識しつつもいつものクリニックに出向くしかなく、しかし、そこで母がお医者様にブチ切れたのはよく覚えています。

 

「治療、治療て、もう死にかけとるじゃないですか!!大きな病院紹介してください!!」

 

おぉ👏

 

その日のうちに、こども病院の腎内科を初診しました。(なんでやねん)

 

もうこちとら、もーろーとしてましたし、頭のなかは「痛い」と「怠い」以外は何の気持ちも湧いてこない状態です。

 

6歳の女児には心が傷付くしかない、様々な検査とお尻からのバリウムの結果、

 

膠原病の疑い」として緊急入院となり、

(また外しとるやないかーい)

 

すぐに点滴と輸血の手配がされました。

 

その後、バリウム検査の結果を見た外科の先生の判断にて、ようやく「潰瘍性大腸炎」との病名が授けられたのでした。

 

その日から長い長い入院生活が始まります。

 

また改めて、

 

本日は皆さまもおやすみなさいませ*°

39歳で初めて就職してみて5年経った話し④

4日目更新できました。

人としてのレベルが少し上がった気がします。

 

しかし、オミクロン株の感染者が全国的に爆上がりで、福岡の天神は既に人もまばら。

何となく灯るあかりも暗いです。ある意味捗りますが、皆さんお気を付けて💦

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※母ちゃん、最近帰り早いねー、言うとります

 

昨日は戦前までだいぶ脱線しましたが、

ビオフェルミン好きの腹痛少女が、正式に「潰瘍性大腸炎」と言う病名を貰ったのは6歳の時でした。

 

それまでは近所のクリニックで”痔”もしくは”甘え”という診断でした。

 

後半までこんなに人生に響くことになるとはな、

今となっては、訴えてやりたい…。

 

そんな気持ちもありますが、何にでも時効はあり、かつ、もう恐らく他界されているでしょう😅

 

まぁでも、分からなかったのもある意味仕方ないようです。

 

私が生まれた1978年(昭和53年)。

福岡で大きな渇水がありました。

母は大きなお腹で配給の水を何度も運んだらしいです。覚えておいでの方ももしやいらっしゃるかもしれませんね🙂

 

この病気については、1875年に英国にて報告がされたものの、日本で東京大学から報告されたのは1925年。

 

旧厚生省から「特定疾患」の指定がされたのは、1973年。

私が生まれるまでにほんの5年しかなかったのですから、町医者さんでは判断出来なかったのも無理はないかもしれないですね。

 

しかし、ヨーロッパと日本で100年も報告に時差があるとはなかなか愕然とします。

 

日本人に症例が少なかったという話ですが、

あんなに立っていられないほど痛かったのに、”痔”だの”甘え”だので放置され続けた身としてはちょとプンプン事例な上に、もうひたすら、それホントかよ😤な、気持ちであります。

 

下血いよいよ激しく、絵の具の付いた筆を洗ったかのような真っ赤な液体だけが、トイレにたまるようになりました。

 

1日3回、母が無理やり可愛いオニギリを口に押し込んでくる行為を、虐待のように感じていました。

 

ある師走の夕方、

6歳の私の声は全く出なくなりました。

 

長くなりましたので、今日はここまで。

 

昭和のお話ばかりなので、ちょうど昨日見せて貰った懐かしいものをヨイショ!!

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皆さま、本日良い夢を*°

39歳で初めて就職して5年経った話し③

 何事も続けるには3日目は大切ですね!(←4日目も言うはず)

 

前回私が”潰瘍性大腸炎”とゆう病気を稀なケースで”生まれつき”患ったことについて軽く触れましたが、もう少し詳しくお伝えしたく思います。

 

物心がついた、4、5歳の頃、腹痛は日常でした。

 

今ではとんだ食いしん坊に育ち上がり、もはや痩せ方の道筋も見えてません…が、

(まだぽっちゃりです!!←なんかすみません)

 

その頃は単純に、ご飯が食べたくありませんでした。

食べないことに理由はなく、食べる意味が分からないレベルです。

 

手も足もヒョロヒョロに細く、母はなんとか食べさせようと、1口サイズの可愛いおにぎりを作り、おかずを置いたお皿の縁にたくさん並べ睨めっこをしておりました。

 

生まれ育った家族構成は、

父、母、姉、私。

 

姉は肉食。私は草食。

 

母がバランスを整えて差し出したそのお皿の中身を、姉妹で阿吽の呼吸にてバレぬよう交換したのが、今生の最初の罪です🙋‍♀️あ、それ以外は、羊水に○コしてたらしい、、、お腹痛かったんでしょうねー(どっちもかわいそう)

 

ちなみに、私の1歳の誕生日までは祖父も同居していたらしいです。

 

ちゃぶ台返す、元気な爺さんだったらしいです。でも、高い物は決して投げなかったらしいので、理性あり。有罪ですね。笑

 

私が覚えている爺じは、椿油の香り。

 

しかし匂いって凄いですね。

 

ある日、博多場所にて来福していたお相撲さんとすれ違った際、共に居た母が急に泣きだしたことがあります。

 

生後1年程しか共に居なかった私が、お相撲さんの瓶付椿油の香りを嗅いで「じぃちゃんの匂い」と、言ったことに驚いたらしいです。

 

あ。

 

最近、叔母達が思い出話を繰り返す年齢になり(確実に死期を感じるらしいです!)

やっと聞けた話しなのですが、

 

祖父は戦時中、仕立て屋として百貨店に務めており、その流れで満州に渡って、軍の制服を作っていたらしいです。

 

終戦宣言前に”噂話”として終戦を知り、

着の身着のまま現地の舟を雇い、日本へ帰るべく、父、母、兄、妹、4人、うねるような真っ黒な恐ろしい海の中、ひたすら動かぬように身を寄せ合ったと言います。

 

辿り着いた陸地は港なんてものではなく、そこらの砂浜へ船着き、浜に上がりようやく振り替えった頃、荷物を乗せた舟は荷を下ろさぬまま立ち去って行ったそうです(笑)

 

全てを失くしつつ家がある場所を目指すと、普段見えたことのない海が見えるほどの見通しの良い焼け野原。

 

家の隣にある神社は残っており、しばらくは社務所をお借りして生活していたそうです。

 

その場所は今でも、福岡の第2の中心地、”天神”のすぐ脇にあります。

 

ちなみに、私の父はその後生まれた末っ子で、ちょとアホです。

 

 

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※天神付近で夜中空いてるラーメン

拉麺酒房しはら「大名」

 

なんとなくきりが良いので、本日はここまでで。

 

(③にて、これは先々長くなるなと感じた方…。正解!!!)

 

皆さん、良い夢を*°