39歳で初めて就職して5年経った話し③
何事も続けるには3日目は大切ですね!(←4日目も言うはず)
前回私が”潰瘍性大腸炎”とゆう病気を稀なケースで”生まれつき”患ったことについて軽く触れましたが、もう少し詳しくお伝えしたく思います。
物心がついた、4、5歳の頃、腹痛は日常でした。
今ではとんだ食いしん坊に育ち上がり、もはや痩せ方の道筋も見えてません…が、
(まだぽっちゃりです!!←なんかすみません)
その頃は単純に、ご飯が食べたくありませんでした。
食べないことに理由はなく、食べる意味が分からないレベルです。
手も足もヒョロヒョロに細く、母はなんとか食べさせようと、1口サイズの可愛いおにぎりを作り、おかずを置いたお皿の縁にたくさん並べ睨めっこをしておりました。
生まれ育った家族構成は、
父、母、姉、私。
姉は肉食。私は草食。
母がバランスを整えて差し出したそのお皿の中身を、姉妹で阿吽の呼吸にてバレぬよう交換したのが、今生の最初の罪です🙋♀️あ、それ以外は、羊水に○コしてたらしい、、、お腹痛かったんでしょうねー(どっちもかわいそう)
ちなみに、私の1歳の誕生日までは祖父も同居していたらしいです。
ちゃぶ台返す、元気な爺さんだったらしいです。でも、高い物は決して投げなかったらしいので、理性あり。有罪ですね。笑
私が覚えている爺じは、椿油の香り。
しかし匂いって凄いですね。
ある日、博多場所にて来福していたお相撲さんとすれ違った際、共に居た母が急に泣きだしたことがあります。
生後1年程しか共に居なかった私が、お相撲さんの瓶付椿油の香りを嗅いで「じぃちゃんの匂い」と、言ったことに驚いたらしいです。
あ。
最近、叔母達が思い出話を繰り返す年齢になり(確実に死期を感じるらしいです!)
やっと聞けた話しなのですが、
祖父は戦時中、仕立て屋として百貨店に務めており、その流れで満州に渡って、軍の制服を作っていたらしいです。
着の身着のまま現地の舟を雇い、日本へ帰るべく、父、母、兄、妹、4人、うねるような真っ黒な恐ろしい海の中、ひたすら動かぬように身を寄せ合ったと言います。
辿り着いた陸地は港なんてものではなく、そこらの砂浜へ船着き、浜に上がりようやく振り替えった頃、荷物を乗せた舟は荷を下ろさぬまま立ち去って行ったそうです(笑)
全てを失くしつつ家がある場所を目指すと、普段見えたことのない海が見えるほどの見通しの良い焼け野原。
家の隣にある神社は残っており、しばらくは社務所をお借りして生活していたそうです。
その場所は今でも、福岡の第2の中心地、”天神”のすぐ脇にあります。
ちなみに、私の父はその後生まれた末っ子で、ちょとアホです。
※天神付近で夜中空いてるラーメン
拉麺酒房しはら「大名」
なんとなくきりが良いので、本日はここまでで。
(③にて、これは先々長くなるなと感じた方…。正解!!!)
皆さん、良い夢を*°